とやま ―人間は間違える―

 思いもよらない間違いをした経験は誰にだってあると思う。

 高校一年生の冬の朝だった。通学中、ふと駅のプラットフォームに置かれたバケツに氷が張っているのに気が付いた。どれくらいの厚さの氷ができているのか気になって靴底で踏んづけてみた。すると少しも氷は張っていない。そのバケツは痰ツボだった。そして、その表面を白く濁らせている氷と思ったものはいろんな人々の痰だった。僕の靴は痰まみれになった。そんなミスをした僕が冬に氷が張ることが少しも珍しくない長野で生活するようになったのは皮肉のような気もする。

 長野に住んでいる学生から聞いた話だ。大学に行こうと家を出てふと見ると隣の家の縁側の前にお隣さんが佇んでおられる。おはようございます、と挨拶をしたのだが、いつも愛想のいい隣人が返事をくれない。おかしいなと思ってよく見てみると、お隣さんではなくてサルだったという。温泉にサルがつかっているという長野らしい話だと思う。

 当たり前だが、長野の冬は寒い。最低気温が-10℃以下ということもある。低温注意報なるものが出されることがあり、何をどう注意したらいいのか戸惑ったりする。寒すぎて充電できないと携帯電話に表示されたりする。一方、長野の夏は涼しいだろうとよく言われるが、きっちりと暑い。僕が大阪で生活していた時に持っていた避暑地としての長野のイメージは間違いだった。

 このようにいろんな間違いを僕たちは犯して生きている。全てが正しい人なんてきっとこの世界にいないだろう。お互い間違えてしまう存在であるということを前提に許せるところは許し合う。人間関係においてそういういわば「遊び」の部分が必要なのではないかなあと最近は考えたりする。

 これも自分が歳をとり、間違いを積み重ね、周りの人たちに迷惑をかけ続けてきたからこそ思うことなのだろう。

 長野の山間地に住んでおられるご高齢の方にお話しを聞く機会があった。

「昔と景色は変わりましたか?」と尋ねると

「変わったねえ。緑が増えたよ。昔は山肌に地面がくっきりと見えたものだけどねえ。」

と僕が予想したのと全く違う答えが返ってきた。

「燃料に木を使っていた時は緑なんか目に見える範囲にほとんど無かった。今はだれも取らんから、木だらけだ。」

昔は里山に自然が溢れ、緑に満ちていたという僕のイメージはどうやら間違っていたようだ。

 社会の状況により大きく環境は変化する。そうした背景をよく知らずに環境というものを考えると大きな間違いを犯してしまうこともありそうだ。環境というものを間違いなく考えるということは本当に難しいことだと思う。

 環境問題は人々の生活に大きな影響を与え、影響を受けた人々を長年にわたり苦しめることがある。それゆえ、環境に新たな問題が生じないように常にチェックしておく必要がある。しかしながら、環境問題の種類は膨大であり、また思ってもみなかった形で存在している可能性がある。また、土地により環境とその環境を形づくっている社会的背景は大きく異なっており、一般的な方法論を構築することは非常に難しいと思われる。

 それならばどうしたらいいのだろうか?

 各土地、それぞれにおける現在の状況や歴史的な背景にもとづいて実現可能な最も間違いのないと思われる環境に対するビジョンを住民みんなが共有し、そのビジョンを目指しつつ、臨機応変に環境の変化に対応していく。他人まかせでなく、自分たちで、地域ぐるみで、環境と向き合っていく。そうした体制を作ることが最も必要なのではないだろうか。 人間というものは間違ってしまう生き物なのだろう。しかし、こと環境の問題については間違えてしまうと大変な事態になることがある。このことを私達は常に心に留め置いておかなければならないと僕は思う。