うめいにんげん ―科学の未来―

 小学生のころ、強く印象に残ったことはなかなか忘れない。

 僕は大阪市の四ツ橋にあった電気科学館の「透明人間の部屋」という展示を今でも覚えている。展示室にはごく一般的な家庭の部屋にある箪笥やキッチンなどの調度品が置かれている。しかし、その調度品が普通でない。自動に引き出しがあいたり、お湯がわいたり、椅子が引かれたり、様々な生活用品が人もいないのに動き出す。僕は食い入るようにこの展示を飽きもせず、息を飲んでずっと見ていた。もちろん、小学生の僕もこれが「透明人間」の仕業ではなく、電気が動かしているということは知っていた。そして、僕はそこに未来があるような気がしていた。

 それから40年以上が経ち、僕は長野県佐久市の子ども未来館という子供のための科学館のリニューアル作業に関係させていただくことになった。リニューアルのための委員会で委員の方々と子供たちが喜ぶような科学の展示について喧々諤々、議論する作業は楽しかった。自分が大好きな科学を子供たちに面白く紹介するにはどうしたらいいだろう?それを考えることは僕にとってやりがいのあることだったし、ワクワクすることでもあった。

 科学館の展示は「宇宙」、「自然」などいくつかのゾーンに分かれていて、それぞれのゾーンで子供たちに見せたい展示物についての意見が委員会で委員のみなさんからさかんに出された。そして、この科学館の最後の展示ゾーンのテーマが「未来」だった。このゾーンの展示物をどのようにするかという議題になった途端、議論が止まった。委員の中からは

「科学の未来って何なのだろう?」

「ロボット、AI、自動運転、そういったものを示しても、それはもう未来ではないじゃないか?」

「科学技術の発展の末の悪い未来ならばいくつも示すことができると思うが、それでいいのだろうか?」

「子供たちに希望に満ちた科学の未来を示せないということは問題ではないか?」

など戸惑いの意見がいくつか出された。結局、その議論はまとまらず、結論は据え置くこととなった。

 科学の「未来」のゾーンにどのような展示をすればいいのか、僕もアイデアが全く浮かばなかった。子供たちに示したい科学の未来が思い浮かばない、それは科学者であり、教育者である自分にとって大きな問題のように感じた。どうして僕は子供たちに明るい未来が示せないのだろう?

 科学技術は生活をどんどんと便利にしている。便利さがとことん進むと僕らの感覚が退化していくのかもしれない。身体を動かさず、頭も使わず、ただ、じっと飯を食い、寝る存在になっていくのではないか?そんな未来を僕は想像してしまう。そんな未来を作り上げ、子供たちに残したくないし、そんな未来を子供たちに示したくない。

 鉄腕アトムやドラえもんの世界は僕が子供のとき、大人たちが示してくれた夢だった。透明人間の部屋もそうだったのかもしれない。僕は夢をイメージする努力をせずとも大人たちがそれを示してくれた。そんな夢と思っていたことの多くが急速に実現した。そして大人になった僕は新しい夢を子供たちに明確に示すことができないでいる。

 佐久市のリニューアルの担当者が

「未来のゾーンでは『未来は君が作る。』という大きな看板を示すというのはどうでしょうか?」

と遠慮がちに意見された。それが一番、正しいのかもしれない。僕の世代の人間の夢の世界が子供たちの現在なのだ。その現在できっと子供たちは新しい新たな夢を見るだろう。そんなことを子供たちに期待するしかないように思った。それはしかし、なんだか自分が逃げているような感じもした。

 結局、僕は子供たちに未来の乗り物、未来の服を着た人、未来の建物を書いてもらって、その絵を画像としてコンピューターに取り込ませ、スクリーンに映し出し、その画像をスクリーン内で複雑に動かすという展示にすればどうかという提案をした。しかし、委員の皆さんからはあまりいい反応は得られず、その提案は実現されなかった。

 技術は透明人間となって僕のまわりにいる。そして、僕は知らないうちに透明人間の言いなりになって身体も心もあまり動かさなくなっているのかもしれない。そして、未来のことをあまりポジティブに考えられなくなっているのかもしれない。それではいけない。どうしたらいいのだろうと自分に何度も問い返す今日この頃である。