ま ―生き物の思い出―

 「なつかしい」という想いは何かを失ったとき、生まれるものなのかもしれない。それは甘くて優しくてそして痛い。

 沼は僕にとって遊園地より楽しい場所だった。家から5分くらい歩いたところの田んぼの奥にその沼があった。

 沼は生き物に溢れていた。小学生の僕は暇さえあればその沼に行った。沼の底にたまった泥を網ですくい取り、泥の中にザリガニがいないかヤゴがいないか探した。茶色い小さなザリガニがよく取れた。急に地上にあげられ、ザリガニは怒って小さなハサミを振り上げた。脱皮中のザリガニはすぐに逃がしてあげるというのが僕の不文律だった。沼の水面にカエルの卵が一面に浮かんでいたこともあった。カエルの卵を触り、その寒天質の感触に驚いた。春になると沼のまわりにはニョキニョキとツクシが生えた。田んぼの横に沼に続く溝があった。無数のメダカが自由に泳いでいた。あぜ道に寝転がってその動きをいつまでも見ていた。そして泥だらけになって家に帰った。服を洗う身にもなれと母にしばしば怒られた。

 ある日のことだった。学校が終わり、家に帰った。いい天気だった。いつものようにザリガニを取ろうと網をもって沼へと走った。

 沼は消えていた。すぐ横に大きな黄色いショベルカーが仕事を終えて、その手を中途半端に空中に浮かべて止まっていた。沼は完全に埋め立てられていた。沼に流れ込む溝もなくなっていた。そして、白いブロックがきれいにいくつも積み重ねられていた。僕は呆然と立ち尽くした。ザリガニ達は、ヤゴは、カエルは、メダカ達はどこに行ったのだろう。膝の裏にさあっと冷たいものが走った。その心地を今も覚えている。

 それから20年以上経って僕は環境の研究者になった。あまり意識をしたことはなかったが、もしかしたら沼が無くなったこととそのことは何か関係があったのかもしれない。

 茶色いザリガニや灰色の泥やそのにおいが今もなつかしくて仕方がない。