り ―Mさんの思い出―

 僕がイギリスの研究所に留学したのは2004年のことだった。

 イギリスに着いて研究所に行き、研究室のボスやメンバーの人たちと挨拶を交わしてすぐ、僕は固まった。彼らが何を話しているのかほとんど聞き取れなかったのだ。

 それまで、英語で論文をたくさん書いてきた。英会話も日本でそれなりに勉強したつもりだった。しかし、その英語力はイギリスの現地ではほとんど通用しなかった。僕は自分の周りを飛び交う英語の中であいまいな笑顔を浮かべて、大変なことになったと思った。

 研究所で研究をはじめるにあたって、ボスが共同研究者として紹介してくれたのがMさんだった。Mさんは白い髭をたくわえた小柄な年配のイギリス人のおじさんだった。僕は彼に機械の使い方や研究のテクニックを教わりながら自分の研究を進めて行った。Mさんが言っていることもよく聞き取れなかったが、彼は根気よく僕に付き合ってくれた。僕は彼のおかげで何とか研究結果を少しずつ積み上げていった。

 しばらく研究所に通っても僕の英語力は一向に上がらなかった。誰にも話しかけられず僕は孤立していた。友人ができない僕をMさんは一人、心配してくれていた。

「ビリヤードをしよう。」

と誘ってくれ、二人でビリヤードをしに行った。Mさんはビリヤードが下手糞だった。全然、ビリヤードなんかしない人のようだった。でも、大げさに楽しそうに僕とビリヤードをしてくれた。

 Mさんが得意げに彼の発明品を見せてくれたこともあった。自転車のまわりをビニールハウスのようなもので囲ったものだった。雨でも走ることができるという。実際、雨の中をその自転車で研究所にやってきた。目の前が息で白く曇って、先が見えにくそうだったけど、本人は真剣な表情でペダルをこいでいた。

 彼といっしょに仕事をしていて、気づかされたことがいくつかあった。

 朝、研究所に着くや否や彼がまずすることは、電子天秤に分銅を乗せることだった。天秤に誤差があるのかどうか、あるならばどの程度なのか、毎日、きっちりと記録していた。電子天秤の誤差を毎日、チェックするという習慣は僕にはなかった。

 僕らが使っていた機械はとても古かった。最新の機種は測定値を出すまでの自動化が進んでいて、僕はそういった新しい機器を使いたかった。そこで、Mさんに新しい機械を導入したらどうか提案したところ、

「心配いらない。この機械のすべての部品について僕は理解している。少しでも調子が悪くなったら言ってくれ。修理するから。」

と自慢げに言った。確かにMさんが頻繁に修理をするから、その機械は安定した結果をいつも出してくれた。

 イギリスでの研究生活もそろそろ慣れてきたかなあと思ってきた、ある日のことだった。Mさんが散歩に行こうと誘ってきた。僕は気軽にいいよと答え、実験の手を止めて、Mさんについていった。Mさんは研究所のすぐ横にあった森の中へと入って行った。人っ子一人いない暗い森で、入口に『不法投棄禁止 カメラ監視中』といった看板が立ててあった。僕らは歩きながら話をした。

「研究者をリタイアしようと思うんだ。」

Mさんが言った。唐突だったので僕はびっくりした。

「生活は大丈夫なの?」

と尋ねると

「そんなのは大した問題ではない。僕が心配なのは君なんだ。」

とMさんは足元を見ながら言った。

「大丈夫だよ。」

少し大丈夫じゃないかなと思いながら僕はそう答えた。

「そうか。」

Mさんは少し寂しそうな感じで言った。

 それからしばらくしてMさんは本当に研究所を辞めた。イギリスの田舎のほうで老後を暮らすのだと嬉しそうにボスに言っていた。送別会が開かれて、Mさんはいろんな人と話をしながら、ちらちらと僕のほうを見ていた。僕は彼に英語でどんなふうに話をしたらいいのか分からず、Mさんの方に近づかなかった。

 その日から、僕はMさんに会っていない。日本に帰国してからはクリスマスカードのやり取りをするだけで、それ以外は全く連絡を取っていなかった。

 今年、Mさんの奥さんから手紙が届いた。

 Mさんが亡くなったという。

 僕は少なからず動揺した。Mさんは温かい心とユーモアを持った尊敬できるプロの研究者だった。

 「ありがとうございました」と送別会のとき、口にすべきだった言葉を空に向かって心の中でつぶやくことしか僕にはできなかった。