きゅう ―ファーストミットと少年―

 野球が好きだ。

 子どものころはずっと野球をしていた。僕はあまりうまい選手ではなかった。でもプロ野球選手になることを心のどこかで夢見ていた。

 ファーストミットをクリスマスプレゼントにもらったことを今でも覚えている。うれしかった。グローブが光輝いて見えた。皮のにおいがする新しいグローブに手を通したとき、確かに心が震えた。本当にボールがとりやすいグローブだった。

 成長して大人になって野球のボールに触るのは息子とキャッチボールをするときくらいになってしまったが、野球の試合はよく見る。何百試合と見てきたのに少しも飽きない。よくできたスポーツだといつも感心する。

 野球というスポーツにはいろいろな要素がある。中でも重要なのは「タイミング」ではないかと思う。

 投手は打者のタイミングをずらすために速球と変化球を織り交ぜる。そうしないと打者にタイミングを合わされ、いいコースにボールを投げても痛打される。盗塁をするのも投手が投げるタイミングをうまく見図らなければ牽制球でアウトになったり、捕手によって盗塁を阻止されたりする。守備もそうだ。打球の速度にうまく合わせて身体を動かさなくてはいけない。ワンバウンドのたまをグローブですくい上げるのも非常にタイミングをつかむのが難しい。投げる、打つ、走る、守る。すべてにおいてタイミングをうまく合わせることが求められる。そして、うまくタイミングがあった時、プレーをしていて楽しいし、見ていて美しいプレーが出る。

 研究においてもタイミングが重要だ。タイミングを逃してはデータが出ないし、他の人に先にデータを出されることもある。

 ある日だった。枯草菌というバクテリアの研究者である山本先生が僕の部屋に相談に来られた。彼は枯草菌の細胞壁に焦点を当てて研究を進めておられる研究者だ。その時の山本先生の話はその分野に全く精通しない僕にとっては非常に難しいものだった。しかし、先生は辛抱強く、ゆっくりと僕にも理解できるように説明してくださった。先生の説明をまとめると以下のようになると思う。

『細胞壁はペプチドグリカンという構造体とそれを結ぶテイコ酸という高分子からできている。このテイコ酸という高分子を遺伝子操作により多くしたり、少なくしたりした株を作ると、細胞壁に変化が起こり、細胞の形が大きく変わる。この変化が起こることにより、細胞壁表面へ物質がくっつく(吸着する)挙動に変化が起こるのではないか?特に金属イオンの吸着に大きな影響が出ると思う。調べてほしい。』

ということのようだった。僕が重金属イオンを含む種々の環境汚染物質の吸着剤を開発していることを山本先生はご存知だったので、僕のところにお話しに来られたようだ。先生にさらにいろいろと教えていただくとこのテイコ酸はリン酸基という官能基(化学物質におけるいくつかの原子でできた部品のようなもの)を多数、有しているらしい。

「リン酸基?待てよ?」

僕の中のアンテナに何か信号がきた。

「希土類はどうだろう?」

タイミングとは恐ろしいもので、僕は希土類と呼ばれている元素がリン酸基と相性がいいということをちょうど、勉強していた最中だったのだ。

 希土類元素は周期表の下に一行、離れて示されている元素たちにスカンジウム、イットリウムを加えた16種類の元素のことを言う。これらの元素は他の元素に無い独特な性質を持っている。それゆえ希土類は様々な製品の中の部品(液晶や磁石など)の材料として用いられており、近年、とくにその需要が高まっている。

 希土類元素は一般的に低濃度で地球環境中に広く分布している。(最近になって日本近海の海底に多く存在するマンガン団塊が高濃度で希土類を含有することが明らかになり、大きな話題になった。)材料として利用するには、土壌や岩石中の希土類を抽出および濃縮し、さらに分離する必要がある。しかし、希土類だけを抽出することは難しい。さらに希土類にはそれぞれよく似た性質を示すものがあるので、これらを分離することは非常に困難である。これまで、希土類の抽出・濃縮そして分離には環境に悪影響を与える化学物質(強酸やリン酸エステル)および高価なイオン交換樹脂という材料が用いられてきた。

 こうした状況の中、安全で安価に希土類元素を得る技術を開発することが非常に重要となってきている。

 前述したように、リン酸基は希土類イオンと非常に相性がいいことが知られている。すなわち、枯草菌の細胞壁表面に存在するテイコ酸は希土類イオンを非常に吸着しやすいと考えられる。枯草菌が希土類の吸着剤として使えるなら環境に悪影響を与える試薬を使う必要もないし、培養を効率よくすれば安価な材料とすることができるかもしれない。

 僕はすぐに枯草菌と遺伝子操作して細胞壁に変化を起こしている枯草菌を希土類の吸着剤として用いる研究をすることを決めた。

 まずは枯草菌を培養して増やすことからはじめる。十分、増殖したら、その液を煮沸して、枯草菌を殺してしまう。煮沸しても構造が破壊されない細胞壁が得られればいいので、煮沸しても問題ない。煮沸後、遠心分離をして固体と液体にわけ、液体を廃棄したのち、固体をフリーズドライする。すると枯草菌由来の粉体が得られる。これを希土類の吸着剤として用いる。

 どの程度、希土類が枯草菌の粉体に吸着するかを見る実験は単純だ。ある濃度の希土類の水溶液を調製し、ここに枯草菌の粉体を入れ、よく攪拌する。攪拌後、ろ過をして粉体を取り除き、得られた液体の希土類の濃度を測定する。最初の濃度と比較して、減少した分が枯草菌の粉体に吸着した量だと考えられる。

 結果、枯草菌は非常に効率よく、また短い時間で希土類イオンを吸着することが分かった。また、遺伝子操作により、テイコ酸の量を変化させた株は、遺伝子操作していない株と比較して、希土類金属イオンの吸着の挙動が異なるということが明らかになってきた。例えばリポテイコ酸と呼ばれる種類のテイコ酸を遺伝子操作により欠損させた株は希土類金属イオンと混ぜると小さな塊を作ることが分かった。小さな塊になってくれると粉体を取り除く時のろ過の時間が大きく短縮できる。これは、実用化を考える際には重要なポイントとなる。遺伝子操作していない株ではこのような現象は起こらなかった。この現象は遺伝子操作による枯草菌表面におけるテイコ酸の分布の変化、および枯草菌の構造の変化によるものだと思われるが、原因の詳細は分かっていない。

 希土類の種類による吸着のしやすさが遺伝子操作していない株と遺伝子操作したいくつかの株、それぞれについて異なることも分かってきた。このことを利用して、吸着作業をいくつかの枯草菌粉体を用いて、連続的に吸着試験をすることにより希土類の分離がかなりの割合まで達成できるようになった。

 実験を行った学生のみなさんの奮闘のおかげで、枯草菌は次々と面白いデータを今も出し続けてくれている。僕にとっては楽しくて仕方がない研究テーマのひとつだ。まだまだ実際に希土類の抽出や分離に枯草菌の粉体を使用するには検討すべきことも少なくないが、いつか実用が可能になる技術になるのではないかと考えている。

 研究はいろいろなことを教えてくれると思う。失敗してもくじけてはいけないこととか、どうしようもない運があるということとか、仲間と必死になって力を合わせることの楽しさとか、僕はどれだけ多くのことを研究から学んだだろう。学生のみなさんも研究を楽しみ、いろんなことを研究から学んでくれているだろうし、学んでほしいと僕は思う。

 そして、野球も研究と同じようなところがあると思う。

 息子が出場するソフトボール大会を見に行った。野球人口が減って、キャッチボールできる場所も減ってしまった。うまくプレーできる子供は少ない。自然、エラーが多い大会になる。それはそれで、子供たちが必死でプレーをしているのを見ると感動してしまう。息子も懸命にボールを追いかけている。彼にグローブを買ってあげたとき、彼が何度も何度もありがとうと言っていたことを思い出す。そのグローブを手にして息子は真剣な表情でボールを追いかけている。息子も白い小さなボールにいろいろなことを学んでいるのだろう。

 子供たちの試合を見ているとエラーをしたときの申し訳ない気持ちとか、三振をしたときの屈辱感とか、いいプレーをしたときの誇らしさとか、負けた時の悔しさや勝った時の喜びもまるで自分がプレーしているかのように胸の中によみがえってきた。 

 野球を楽しむ子どもの心はきっと昔も今も変わっていないと僕は思う。