め ―ガジュマルと見る夢―

 「夢ナビ」という高校生に向けて大学の先生が講義をするという企画に参加することになった。この夢ナビというのはおそらく「夢のナビゲーション」という意味だろう。講義を準備するにあたって、この「夢」という言葉が気になった。「夢」を冠する企画に自分が出るということになんとなく抵抗や恥ずかしさがあった。

 夢というのはなんだろう?辞書にはいろいろな意味が書いてあった。夜見るものであったり、はかないものであったり、と夢という言葉がいろいろな形で用いられているということを改めて認識した。その中で「夢ナビ」の夢というのは「自分がこうありたいと願うこと」という意味にもっとも近いのだろうと思った。自分がこうありたいと願う。それは僕がイメージしていた口にするのが恥ずかしい「夢」ではなく、むしろきっちりと自分の中で持っておくべきもので、恥ずかしさなど感じるべき存在ではないように思った。「自分がこうありたいと願うこと」のナビゲーションをする、という目的が僕の中で定まり、何とかその講義の流れというものを作ることができた。

 さて、どうして僕は「夢」という言葉に恥ずかしさを感じるのだろう?マスコミでよく目にしたり、耳にしたりする「夢」は実現が不可能と思えるような子供っぽい願望というイメージが僕にあるからだと思う。ところが、夢というものはどうやら、もっと身近で現実に近いものであってもいいようなのだ。そうなると話は違う。

 自分がこうありたいと願うことは、やはり達成していきたい。僕は夢を実現化する方法論について具体的に語られていないことが問題であると思った。夢をかなえるための方法論というものをきっちりと議論する必要があるのではないだろうか?

 まず頑張れば実現可能と思える夢を設定する。それは小さい夢でもいい。それでも努力しないと実現はきっと難しいだろう。それをクリアーしたうえで、また次のもう一段階、困難な夢を設定する。それを何とか達成する。そうしたことを繰り返すことが自分の最終的な願いをかなえるのに必要なことだろう。とにかく、行動しないとはじまらない。あまりにも大きい夢を目標とすると、それに向かって何をしたらいいのかも想像がつかない。まずは想像つく範囲の夢を設定することが大切だろう。夢を見るのにも戦略が必要なのだと思う。

 偉そうに高校生に向かって夢を語ることになってしまったのだが、翻って自分が今、見ている夢は何だろうと自問してみる。自分が大好きな研究活動で生活をさせてもらっている。とりあえずはこれをできるだけ続けたい。そして、その研究活動の結果として少しでも人類に役立つ、人を幸せにするようなことをしたい。

 今、僕の中でそれは「安全な水を簡単に作る方法を開発する。」ことだ。現在も安全な水にアクセスできず、感染症や中毒などの脅威と向き合っている人が世界にいる。WHOが2007年に発表した結果と比べて飲料水の安全性は世界各地で改善されているようだが、まだ飲料水が原因で重篤な感染症にかかっていたり、中毒症状を示したりしている人の割合が多い地域が少なくない。安価に簡易に安全な水を得ることができるような方法を開発すれば、こうした地域における感染症の発生率を下げることができるのではないだろうか?もしそれが達成できたら、研究者として僕がもっているだろうささやかな力を活かすことができるのではないだろうか?そんなことを考えている。

 今の職についてすぐ、職場の近くのお店で手のひらに入るほどの植木鉢を買った。植木鉢の真ん中には小さな葉をいくつかつけた植物がちょこんと鎮座していた。僕は嬉々として、その植木鉢を自分の部屋に置いた。どうしてそんなものを買いたくなったのか分からない。まだ、あまり知り合いがいなくて、少しさみしかったのかもしれない。

 その植物は小さな図体のくせに茎が妙に太い。僕にはその姿は愛嬌があるように思えた。毎日せっせと水をやっているとどんどんと大きくなった。植木鉢を成長の度合いにあわせて何度も新調した。何年か経つとぼくの身長くらいになった。沖縄出身の学生がその植物を見るなり、「ガジュマルだ。」と植物の名前を教えてくれた。沖縄によく生えている植物らしい。

 何の剪定もせずにただ水をやることしかしていないので、ガジュマルの葉は大いに生い茂る。そして、光のよく入る窓の方に茎がどんどん伸びていく。もはや茎ではなく、幹という感じになっている。光を貪欲に欲する植物の動きは感心する。荷物を取ろうと少し鉢の位置を移動すると、しばらくするとまた幹が窓の方向を向いている。光合成をして生きている植物としては当然の行為なのだが植物は動かないという固定観念が頭のどこかにある自分にとっては驚くほどガジュマルはダイナミックだ。

 光合成というと頭にまっさきに思い浮かぶ研究がある。それは僕が大学四年生のとき、卒業研究として取り組んだ研究だ。研究室の先生にテーマをいただき、研究をはじめた。それは二酸化炭素を光触媒という材料を用いて光を照射することにより反応させるというものだった。いいデータが出なくても、面白くて仕方なかった。こんなに楽しいことがあるのかと思った。人工的に光合成を起こすことができないかという非常に夢のあるテーマだった。世界の誰も見たことのない知らないことを自分が見つけられるかもしれないということが自分にとっては本当に興奮することだった。夢中になって研究をした。しかし、同期の仲間がどんどんといい結果を出していくのに対し、僕は全くデータが出なかった。卒業論文の締め切りが迫ってきたころ、待ちに待っていた一本のピークを出すことができた。ずっと面倒を見てくれていた先輩にその結果を見せにいった。先輩は目にいっぱい涙をためて、「よかったなあ。」とつぶやくように言った。その声を聞いて、僕は研究を一生の仕事にしようと思った。

 今も光反応の研究をしている。太陽光をあてることにより環境汚染物質を分解する作用を持つ材料を開発している。いくつか新しい材料を開発することに成功した。しかし、分解が十分に進まなかったり、分解の能力が低かったりとクリアーしなくてはいけない問題が多い。その性能アップのために学生と日々、考えては実験して、失敗してはまた考えて、を繰り返している。

 研究はうまくいくばかりでない。むしろうまくいかないことがほとんどだ。そして、その結果に一喜一憂し、とことん落ち込んだり、喜んだりする。幸運にもいい成果を上げる学生もいれば、必死で努力しているのに面白いデータが出ない学生もいる(これは研究を指導する僕の責任だ。)。ガジュマルが繁茂しているこの部屋で僕は毎日のように学生と研究の議論をしている。研究の結果に、笑ったり、泣きそうになったりしている僕と学生たちをずっとこのガジャマルは見てきている。

 もうガジュマルを買ったお店も潰れて今は無い。しかし、ガジュマルは僕の部屋の中でうっそうと生い茂っている。秋や冬は枯れ葉の掃除も大変だ。正直、鬱陶しい。だけど、このガジュマルが枯れてしまったらきっと僕はものすごく悲しい気持ちになるだろう。

「風を守る」が「ガジュマル」の語源だという説もあるそうだ。がやがやと葉を茂らせて、たくさんの落ち葉を部屋に落としながら、これからもずっと僕や学生達を見守っていてほしいと思う。